海外移住計画

GDPの議論から、生活の質の議論に。

経済学と競争力 売れるサービスから買われるサービスへ

経済学には競争力の定義がないにも関わらず、競争力なる言葉が独り歩きしている上に国際社会での企業の競争力、つまり国際競争力なる言葉まで生まれている。

 

競争力とはいったい何なのか?価格が競合サービスより安い、技術力が競合サービスより優れている、市場シェアが競合サービスより高いなど様々な意味が、「競争力」という箱を使って、いろんな意味をそこに入れて箱を使っている、そういうイメージを持てる。

 

だから、人によって箱の中身を変えられる「競争力」はとても便利。

 

市場を独占するような高い技術力でその企業にしか作れないようなサービスを供給できれば需要側は高いお金を払っても他に買うところがないからその企業から買う。だからその企業は市場シェア率を高くできる。

 

同じような技術力のサービスがあれば、より安い価格のほうを選ぶ。だから安い価格を提供できる企業は競争力を持てる。

 

安い価格が選ばれるので、生産性を高めることで競争力を持てる。

 

同じような技術、価格なら無名より有名、評判がよいほうを選ぶから、選ばれやすくなるためにステマして競争力を高める。

 

いろいろ競争力の箱の中身があるがいずれも供給側からみたときの競争力である。

 

たとえば、日本では牛丼や豚丼は人気で、企業間競争が激しい。それらはとりわけ価格競争である。しかし、そうした企業が国際的な企業活動をするにあたって例えばインド、ムスリムの多い国の人々に牛丼や豚丼を売ろうとしても、彼らは必要としていないから売れない。ヒンドゥスやムスリムは要らないと言うだろう。宗教的理由で必要としてない例である。

 

見方を変えれば日本で提供する普通のサービスが、他国からみたら要らないオプションが標準化されて売られている、ということである。日本国内の消費者に適正化されたサービスが、外国の消費者にとって需要がない、需要がない故に無駄オプションがたくさんつけてある、そういう現実がある。

 

日本の消費者にとって標準化されたよいものが、他国で売れるとは限らない、その理由は需要側の条件を満たしていないから。たとえば、ムスリムの国にはハラールというイスラーム法でゆるされたという意味で、食べ物にハラールがつくとそれはムスリムの消費者側の条件、つまり需要条件下にある食べ物ということになるから、そうした食べ物を供給できる企業は「競争力」を持てるのである。

 

需要側のある条件下にあるときと、ないときに企業が競争力を持てるか否かが決まる。

 

経済学で定義されていない競争力をもってきて、価格競争力だ技術競争力だなんだという議論は供給側の論調で進められてきたが、そういったやり方は需要側の条件にあまりに無頓着ではないだろうか。

 

ハラールは明示された需要側の条件の一つの例である。

 

需要側の条件を把握、理解しているか否か、その時点で企業の競争は既に始まっている。どのようなサービスでも需要側のある条件下での競争が起きており、競争力という箱の中身を変えながら語られてきた。

 

したがって価格競争や技術競争は需要側のある条件とは何か?をいち早く把握、理解する競争がまず最初になされている。つぎに価格や技術競争などの競争力であり、満足度を上げるなどの努力がある。

 

どの段階の競争力か?と問うのが実は重要で、最初の段階の競争力は需要側の条件の理解力があるかどうかを指す。

 

供給側だけの論調でモノの考えることは、「売れるサービスは何だろうか?」と考えることではないか、またそうやって多くの人が考えてきたのではないか。

 

売れるサービスというと供給側からの言葉としてのイメージが強く、最初の段階の「競争力」を素っ飛ばして生産性を高めればいい、安いもの作ればいい、ということになりかねないが、買われるサービスといえば需要側の条件をイメージし易い。したがって、需要側のある条件を前提とする「買われるサービスは何か?」をきわめて戦略的に理解していくことが重要ではないだろうか。そういう最初の段階の競争力をつけるために他国の事情に詳しいグローバルな人的資源を有効活用したほうがいいのではないだろうか。