海外移住計画

GDPの議論から、生活の質の議論に。

国語のない国、インド。

日本には国語がある。日本語のことを国語と呼んでいる。

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 CPIM(インド共産党マルクス主義派)の赤旗

 

国語は自分自身がその国の国民であると思うことを助けるように機能している。この記事を読んでいる人は学校で「国語」の授業を受けた人が多いと思う。そして、その授業で学んだことのひとつに日本語がある。漢文や古典も読んだりしたと思うが、まずコミュニケーションのための日本語を学んでいるはずである。だが、科目は「日本語」ではなく「国語」である。だから「国語」として日本語を学んだ日本人は、国語が自分自身がその国の国民であると思うことを助けるように機能することから日本語を話すことで自分の持つ複数のアイデンティティの中から国民としてのアイデンティティを選択している。

 

「国語」は国民国家の統合にとって重要であるとゼミで議論されたのを思い出した。が、誰の論文かは忘れた。ところで、「国語」が国民国家の統合にとって重要かどうかは国民国家とはそもそも何か、その定義によって分かれると僕は思っている。が、その論文ではその定義は一国家に一民族とされていたと思う。うろ覚えである。が、そうだとしても、そもそも一民族一国家というのは可能なのか?と甚だ疑問である。インドは多民族国家なので不可能だ。また、国民国家を言語で統一された国家と定義しても、言語統一による国民国家をその国民になるであろう民が望むのか、望んでいるかに関わらずそもそもそれを目指し実現させることは民を幸せにするのだろうか。

 

多民族、多宗教国家で多様性と寛容さを持ち合わせた民主主義国家のインドには国語がない。

 

単一民族の国家であれば同じ民族として「国語」を使うことで統一意識を高められる、という点で重要であろうが多民族国家で統一意識を高めることは可能なのだろうか?可能だとしても「国語」によって統一意識を高められなければならない理由は何だろうか?なぜ「国語」なのか。逆に統一感を失わせる結果になってしまうことは予想できないのだろうか。新渡戸稲造は大和民族の優勢論を憂いたことがあった。彼は、

誇りとすべきことは必ずしも人種の純粋なる点ではない。また国家の勃興隆盛となるは人種や血の単一なるによるとも思われぬ。欧洲の諸国を見渡しても、如何なる国でも人種的に統一された純粋な所は一もない故に我々の系図の中に朝鮮人や支那人の入っているのを寧ろ誇とする時代が来るであろう。しかして極東民族の間に親密を保つ情愛も今日より一層深くなるべき理由も新に発見さるるであろう」 

と語っている。僕はその理由が寛容さと多様性の中から自ら掴み取るアイデンティティの複数性だと思っている。日本にいる外国人を排外的に扱おうとする議論を新渡戸稲造と一緒に憂いたい方は、こちらを読んでみてくださいー。

>『民族優勢説の危険』 新渡戸稲造著 青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000718/files/50897_41261.html

 

ある民族の誇りや重要な何かが言語にあるとしたら、他の民族の言語が「国語」として統一されてしまうと、ある民族にとって重要な何かを手放すようなことにはならないだろうか?実際インドでは、タミル語を話すドラヴィダ系のインド人が多く住むタミルナードゥ州でヒンディーを連邦公用語にすることにさえ反対している。

ヒンディーは国語か?ということが書かれた記事があるので興味があれば読んでみてください。>http://www.siliconindia.com/shownews/Is_Hindi_our_National_Language-nid-87992-cid-29.html

 

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Puducherryにてオートドライバー達と 

 

国語を決めない生き方を選択しているインドは、国語を持った国より統一感に欠けているのだろうか?インドは12億人の人口をもつ民主主義国家で多宗教、多言語で寛容さと多様性を持ち合わせている。多様性と寛容さは統一感とのトレードオフなのだろうか。僕はインドが「国語」による国家統一を目指すとしたら、それはかえって統一感を失わせる結果になると思っている。なぜなら連邦公用語としてヒンディーを使用する段階で反対しているよりもさらに強くドラヴィダ系の人々によって反対されることになるだろうから。もし「国語」が決められても彼らにとって言語の持つ大切な何かを手放すような「国語」の決定は反対されるだろう。

 

言語による統一がされてなくても、多様性があって寛容さがあって多宗教で民主主義国家をなしている割りにみんなバラバラってわけでもない中庸さが良さだと僕は思う。

 

国語がなくてもインド人はインド人なのだ。インド人がインド人たらしめているものは多宗教の寛容さ、800以上の言語が話され複数の民族が暮らす、その他豊かな多様性の中から自分で掴み取ったアイデンティティであると僕は思う。

 

そんじゃーね!