海外移住計画

GDPの議論から、生活の質の議論に。

夏目漱石 『現代日本の開化』を読んでみた。

夏目漱石の『現代日本の開化』というのは明治44年8月に和歌山で講演したときのもので、今ではネットに接続できる方は青空文庫で無料で読むことができます。


夏目漱石『現代日本の開化』青空文庫> http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/759_44901.html


以下、読んでみた感想です。


夏目漱石は開化とはなんぞやということを話しますが、そもそも開化を定義づけするのは難しいけれどそれは論ずる上で必要なことなのでやっておくという感じで話は進んでゆきます。


で、漱石のいう一般的な開化ってどんなこと?というのを漱石の言葉を借りると、
「できるだけ労力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面と、できるだけ気儘(きまま)に勢力を費したいと云う娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜(さくそう)して現今のように混乱した開化と云う不可思議な現象ができるのであります。」


というようなことになります。このように労力の節約と勢力の消費の2つのベクトルで開化を説明しています。


で、重要なのは漱石は日本の開化が一般的な開化ではないといっていることです。


漱石は開化を「内発的な開化」と「外発的な開化」の二つに分けて考えています。


そして、日本の開化は外発的だといっていたりします。


また、日本は

「自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云うとおりにしなければ立ち行かないという有様になった」
といいます。


ちょっと気になるとこではありますが自己本位云々の前に漱石は

「少なくとも鎖港排外の空気で二百年も麻酔したあげく突然西洋文化の刺戟(しげき)に跳(は)ね上ったぐらい強烈な影響は有史以来まだ受けていなかったと云うのが適当でしょう。日本の開化はあの時から急劇に曲折し始めたのであります。また曲折しなければならないほどの衝動を受けたのであります。」と言っていたりします。


結局、漱石は外発的な開化について悲観的です。


で、先ほど気になった無理押しに押されて否応なしだったという点ですが、これはマシュー・ペリー提督が浦賀に新型の蒸気船でやってきたときに、日本人は驚きつつ恐れつつ通商関係を結ばなければならなかったことをいっているのだと思います。


でもこのことが政府の教育方針を変えてたり、知的な孤立から抜け出すきっかけになってたりするんですよね。


1868年に御誓文というのが明治政府から基本方針として出されますが、そのなかで「智識を世界に求め」ることの必要性が宣言されてたりします。


で、一般には1910年には小学校教育が普及していたとされているわけです。


しかも1913年には当時の日本は発展途上国でありながら世界の出版大国だったりしました。


日本人が西洋人の真似をすることしかできないようなことを漱石は言いますが、それが将来まで続くとは限らないのに漱石は将来まで悲観的なのですよね。


「開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちようも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似(まね)をさせて主客の位地(いち)を易(か)えるのは容易の事である。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展してきた風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。自然と内に醗酵(はっこう)して醸(かも)された礼式でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細(ささい)な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的である。」


とはいえ文化は不変ではないので、西洋が日本に影響を与えると同時にその逆もありえるわけです。つまりお互いに影響しあっているのわけですね。


「我々の方が強ければあっちこっちの真似(まね)をさせて主客の位地(いち)を易(か)えるのは容易の事である。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。」と漱石はいいますが、これって逆に西洋が真似をさせてると思っていたりするんでしょうか?


今日では真似する利点があったり文化的な尊重によって真似をすることはありますが漱石のように悲観的になるようなことはないと思うんですよね。。。


西洋文明とか西洋科学といわれてるものには世界のさまざまな国々からもたらされた貢献が影響されているわけで、その世界のさまざまな国々が行った貢献を無視した西洋云々論って矮小化してることになるので西洋か反西洋になってしまうと思うんですよね。


なんというか、結局は邪魔されずに自分のちからでやりたいことができるかどうかを漱石は言っているのかなと。とても自己流に拘わってるなーと。。。


これって漱石の『私の個人主義』にも関係してるんじゃないかなーと思ったりしています。


といろいろ書きましたが、結果的に教育に力が入って人間の潜在能力が上がって失ったことよりも得たことのほうが多いのでそこまで悲観的にならなくてもよいかなーと。


教育の重要性に気づかず教育に力を入れないまま強いられた開化をしてしまったとしたらそのときが真に悲観するときではないのかなと。


おわり。