海外移住計画

GDPの議論から、生活の質の議論に。

夏目漱石の『私の個人主義』で考える昨今のこと

そろそろ今年を振り返る頃かなと思いまして。。。


書く気になったのも漱石の『私の個人主義』を読んでふと思ったことがあったからなので、それを今から書いていきます。


夏目漱石『私の個人主義』>http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html


で、夏目漱石の『私の個人主義』がどういうものかといえば漱石が学生に向かって講演をしているものになります。


夏目漱石が学生達に向かってこの講演をしたのは1914(大正3)年のことです。


んで、この講演から97年経つのに何故か最近あった出来事のように思えるところが多いんですよね。


世の中の窮屈さというものは今も昔もあったのだなぁ・・・としみじみ思うのです。


夏目漱石が、


「近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(ふちょう)に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己(おの)れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害(ぼうがい)してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。」


と学生にいったのですが、これは今日の学生以外の大人にもいえることだと思うんですよ。


政治家にもいえるし、メディアの中の人にもいえるし、ツイッターでツイートしてる人にもいえるんですよね。


んで、漱石はこうもいっています。


「第一に自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴(ともな)う責任を重(おもん)じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
 これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍(ぺん)云い換(か)えると、この三者を自由に享(う)け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他(ひと)を妨害する、権力を用いようとすると、濫用(らんよう)に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈(てい)するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。」


夏目漱石はこういいますが、ずいぶん危険な現象を呈するに至ってしまっているのが昨今だと思うのですよね。


漱石の個人主義の考え方からすれば、勘違いされてしまった個人主義が蔓延ってしまった結果だと思うのですよね。


間違っていることがわかる発言が言論の空間にしぶとく残り続けて、個性、金力、権力いずれか(またはいずれも)を持っている人によって、気に入らない発言は粛清されてしまったりしますよね。


気に入らない発言の粛清は多様な意見交換によって間違った発言が自ずと駆逐されていった結果である。ということではなく、多様な意見交換が活発にされなかった背景が無視されているのでそもそも間違った結論を導く危険が孕んでいると思うのです。しかしながら無視をしてはいけない義務はないので不完全義務として無視することができると思うのですが、無視をされると多様な意見交換を活発に行えないわけです。なので、間違った結論を導かないためにできるだけ意見交換をする。



漱石が個性と金力と権力の三つに関して人格の支配を受ける必要があるということは、個性を優先するアイデンティティ、金力を優先するアイデンティティ、権力を優先するアイデンティティを一人の人間が持つということでアマルティア・センのいうアイデンティティの複数性にも繋がると個人的には思っています。


で、僕もなんとか主義(ism)っていうのがあまり好きではないです。


主義(ism)にとらわれて物事を矮小化してしまうのが怖いからです。(民主主義は「主義」でもdemocracyなのでismではない。)


一人の人間が複数の主義を持っていても、どこで主義を優先するかで見落とす物事が出てきてしまうので怖がるのが無駄に思えてきたりもします。。。


でも、そもそも矮小化するのはよくないよねって思っていても矮小化はやっぱりしてしまうのではないかという怖れもあるわけで、その怖れから矮小化しないように努めることは無駄ではないと思えたりもします。リーズニングするということで。。。


ところで、引きこもってだらだら本を読んでゲームしてアニメ見ながら過ごすのが好きな人って割りと多いと思うんですよね。


「私の知っている兄弟で、弟の方は家に引込(ひっこ)んで書物などを読む事が好きなのに引(ひ)き易(か)えて、兄はまた釣道楽(つりどうらく)に憂身(うきみ)をやつしているのがあります。するとこの兄が自分の弟の引込思案でただ家にばかり引籠(ひきこも)っているのを非常に忌(い)まわしいもののように考えるのです。必竟(ひっきょう)は釣をしないからああいう風に厭世的(えんせいてき)になるのだと合点(がてん)して、むやみに弟を釣に引張り出そうとするのです。弟はまたそれが不愉快でたまらないのだけれども、兄が高圧的に釣竿(つりざお)を担がしたり、魚籃(びく)を提げさせたりして、釣堀へ随行を命ずるものだから、まあ目を瞑(つむ)ってくっついて行って、気味の悪い鮒(ふな)などを釣っていやいや帰ってくるのです。それがために兄の計画通り弟の性質が直ったかというと、けっしてそうではない、ますますこの釣というものに対して反抗心を起してくるようになります。つまり釣と兄の性質とはぴたりと合ってその間に何の隙間もないのでしょうが、それはいわゆる兄の個性で、弟とはまるで交渉(こうしょう)がないのです。」


漱石のいう彼の知り合いの兄弟の兄のような人って今も居ると思うんですよね。


僕はその兄弟の弟みたいに家でひきこもって本を読んでいるのが好きなので。。。


ひきこもりが忌まわしいと考える人は今日でもいると思うんですけど、その考えは漱石のいう権力であって、その権力をつかった個性の押し付けである。ということなんですね。


なので、お互いを尊敬して自分も尊敬する漱石の考える個人主義によれば僕は平然と家でひきこもりながら本を読んだりゲームをしたりアニメを見ていられるので、漱石の個人主義が広く受け入れられた世の中のほうが僕にとって得なんですよねぇ。。。