海外移住計画

GDPの議論から、生活の質の議論に。

経済学と競争力 売れるサービスから買われるサービスへ

経済学には競争力の定義がないにも関わらず、競争力なる言葉が独り歩きしている上に国際社会での企業の競争力、つまり国際競争力なる言葉まで生まれている。

 

競争力とはいったい何なのか?価格が競合サービスより安い、技術力が競合サービスより優れている、市場シェアが競合サービスより高いなど様々な意味が、「競争力」という箱を使って、いろんな意味をそこに入れて箱を使っている、そういうイメージを持てる。

 

だから、人によって箱の中身を変えられる「競争力」はとても便利。

 

市場を独占するような高い技術力でその企業にしか作れないようなサービスを供給できれば需要側は高いお金を払っても他に買うところがないからその企業から買う。だからその企業は市場シェア率を高くできる。

 

同じような技術力のサービスがあれば、より安い価格のほうを選ぶ。だから安い価格を提供できる企業は競争力を持てる。

 

安い価格が選ばれるので、生産性を高めることで競争力を持てる。

 

同じような技術、価格なら無名より有名、評判がよいほうを選ぶから、選ばれやすくなるためにステマして競争力を高める。

 

いろいろ競争力の箱の中身があるがいずれも供給側からみたときの競争力である。

 

たとえば、日本では牛丼や豚丼は人気で、企業間競争が激しい。それらはとりわけ価格競争である。しかし、そうした企業が国際的な企業活動をするにあたって例えばインド、ムスリムの多い国の人々に牛丼や豚丼を売ろうとしても、彼らは必要としていないから売れない。ヒンドゥスやムスリムは要らないと言うだろう。宗教的理由で必要としてない例である。

 

見方を変えれば日本で提供する普通のサービスが、他国からみたら要らないオプションが標準化されて売られている、ということである。日本国内の消費者に適正化されたサービスが、外国の消費者にとって需要がない、需要がない故に無駄オプションがたくさんつけてある、そういう現実がある。

 

日本の消費者にとって標準化されたよいものが、他国で売れるとは限らない、その理由は需要側の条件を満たしていないから。たとえば、ムスリムの国にはハラールというイスラーム法でゆるされたという意味で、食べ物にハラールがつくとそれはムスリムの消費者側の条件、つまり需要条件下にある食べ物ということになるから、そうした食べ物を供給できる企業は「競争力」を持てるのである。

 

需要側のある条件下にあるときと、ないときに企業が競争力を持てるか否かが決まる。

 

経済学で定義されていない競争力をもってきて、価格競争力だ技術競争力だなんだという議論は供給側の論調で進められてきたが、そういったやり方は需要側の条件にあまりに無頓着ではないだろうか。

 

ハラールは明示された需要側の条件の一つの例である。

 

需要側の条件を把握、理解しているか否か、その時点で企業の競争は既に始まっている。どのようなサービスでも需要側のある条件下での競争が起きており、競争力という箱の中身を変えながら語られてきた。

 

したがって価格競争や技術競争は需要側のある条件とは何か?をいち早く把握、理解する競争がまず最初になされている。つぎに価格や技術競争などの競争力であり、満足度を上げるなどの努力がある。

 

どの段階の競争力か?と問うのが実は重要で、最初の段階の競争力は需要側の条件の理解力があるかどうかを指す。

 

供給側だけの論調でモノの考えることは、「売れるサービスは何だろうか?」と考えることではないか、またそうやって多くの人が考えてきたのではないか。

 

売れるサービスというと供給側からの言葉としてのイメージが強く、最初の段階の「競争力」を素っ飛ばして生産性を高めればいい、安いもの作ればいい、ということになりかねないが、買われるサービスといえば需要側の条件をイメージし易い。したがって、需要側のある条件を前提とする「買われるサービスは何か?」をきわめて戦略的に理解していくことが重要ではないだろうか。そういう最初の段階の競争力をつけるために他国の事情に詳しいグローバルな人的資源を有効活用したほうがいいのではないだろうか。

よりよく暮らす働くこと、働くことのグローバル化、グローバル企業ってなんだろう

グローバル企業ってよくいわれるけれど、グローバル企業っていったい何なのだろう。海外展開している企業だろうか。国外の市場に対応できる企業だろうか。多国籍企業を指しているのだろうか。

 

グローバル化といえば、経済だけでなく、文化そのものも昔からグローバルであったから今更何がグローバル化なのだろうか?と思うところがある一方で、グローバル企業という言葉が出てくるなら、労働基準のグローバル化も視野に入れていないのはおかしいと思っていて、ILOの国際労働基準を守って企業活動できる企業をグローバル企業と呼ぶのが相応しいと思っている。

 

なぜなら、日本はそもそもルールを守らないし、何のルールを守らないかといえば労働時間でヨーロッパの多くの労働者は日本のように長時間働かないことを前提に企業間競争をしているし、健康に配慮する働き方を管理するのは人事労務管理の分野のひとつで管理者がやらなければならないことであるのに日本ではそもそも管理しようとしない、それらは明らかに国際労働基準を守っていないし、そういった国際社会のルールを無視した競争をしようとしている企業をグローバル企業と呼ぶのはおかしい、つまりとてもヘンであるから。

 

そもそも、国際労働基準は国際的な政労使の合意で出来上がっていて、最低限の基準なのにも関わらず、日本の企業は国際基準の最低限も守れていない。

 

何がグローバル化なのか、何がグローバル企業なのか?

 

労働者が健康を害し、超働いている人の場合には命を削ってまでお金を稼ぐやり方で価格競争力をつけた企業、つまりルール無視の企業がルールを守っている企業を競争に巻き込み、グローバル規模で労働条件を悪化させるだろう。しかも、消費者が安いサービスを欲しがるならなおさらだ。「何でこんなに安いの?」という疑問を私たちは持たなくなってしまっている。安くて当たり前と思っている。労働環境が悪いのは皆承知でルール無視の競争して価格競争してるのだから、安くて当たり前だということを知っている。消費者は、安いからサービス受けにいこうとか買いに行こうとか、価格の背後にある労働環境を気にしなくなってきているというか、麻痺しているというか、ルール無視を後押ししている。

 

これはやばいんだ。ほんとに。なぜなら労働者が健康を害したり、長時間労働してプライベートの時間少なくなったり、そういうことに配慮しない人事労務管理を設計している、というかそもそも設計していないから企業の体を成さない企業があって、そういう企業を経営している人がいて、そこで働く人がいて、そうやってめちゃくちゃなやり方で働いて生んだサービスに対して、もっと品質よくとか、安くとか、そういうことを求める消費者がいて、それらがお互いを支え合っている。だから、やばすぎるんだ。将来のことを考えれば、もっとやばい。

 

小学生に英語の教科化が云々いわれていて、国際競争力がどーたらこーたらいわれていることにすごく危機感がある。国際競争力?心配するところ間違ってね?と思わないのだろうか。たとえば、英語の教科化が成功して、これからの世代の英語のレベルが上がって普通に英語をペラペラとしゃべれるような世代が出てきたとして、英語をつかって海外の情報を得ながら彼らは日本の現状をみて、健康を害するような環境、プライベートな時間が持てないような日本で働きたいだろうか。海外のほうが長期的な視点で健康的に楽しんで暮らせると思うのではないか。そうだとすれば、国際競争力をつけるために英語の教科化を成功させたとしても、彼らは生活の質を考慮して労働条件が比較的よい海外に行って働くことになるだろう。グローバルな労働市場を経由して働くとはそういうことである。

 

国際競争力をつけるとかいいながら、外国語の文脈でしか語れないならもっとやばい。日本の女性の労働力を使えなかったり、仕事をしていても辞めなければ育児できなかったり、辞めたとしても復帰するのにパートタイムだったりと、こんな現状で国際社会でマジで競争していくつもりなの?と危機感もっているのだろうか。そもそも、子供育てるのは両親がやるという話で、どちらか一方が負担を過剰にしている現状はおかしい。共働きが増えている現状認識がなく、女性はシャドウワーク、男性は目に見える賃労働をするというステレオタイプは超やばくて、そういう人がたくさんいる企業の制度は現状に対応できていない、そうするともっとやばい。

 

プライベートな時間を持てたり、健康を害さずに働けたり、人間らしく働けるならサービスが高くなったっていいじゃん、死ぬより、辛く生きるより、というか人間らしく働けなくなるよりは今より高いお金出して、消費者として過剰な要求もやめて、お客様は神様じゃないんだから、くらいに思えるようになって、企業はルール守って競争しようよ。と思えるようになること、それを発言することが重要なんだ。

 

労働政策とか調べて政治に興味もったり、労働組合に興味もったり、ハードルは超低くて2人いれば作れるんだからサクっと友達と労組作っちゃったり、とにかく現状をベターにしようと主体的にならないといけないところに私たちはいるのだと思う。労働に関して、ベターになる目安、それが国際労働基準。最低限のことやれるようになろうよ、グローバルな世界でよりよく暮らしていくのって、そういう最低限のルールを守るのが前提でしょう。

 

日本の抱える社会問題のやばさを目の前に、社会に少しでも悪あがきしてみたいと思った23歳、悩みながら書いた記事です。

議論のキッカケ

日本人は親切だと海外でよく言われた。

 

僕もそう思う。しかし同時に不寛容だと思っている。親切と寛容さは別物だ。

 

たとえば、電車で楽器を演奏したらうるさいから「やめてほしい」と言う人が出てくるだろう。また、自転車を抱えて電車に乗ったらすごく迷惑がられて「やめてほしい」と言う人が出てくるだろう。駅や駅の近くで音楽を演奏するのは迷惑だからと禁止されていたりする。

 

迷惑だからと禁止項目を増やしていくと日本は狭くなる。

 

これからの日本は人口が減少し続けて生産年齢人口も同時に減っていく。子供のための環境作りとその支援も充実してない。子供の泣き声がうるさいと苦情を入れる不寛容さもあったりする。

 

日本は将来移民を増やすために何をやる必要があるのか。いや、まず移民の受け入れ反対がたぶん多いから政治家はそこまで詰めていけないと僕は思う。移民を本当にどうしたらいいのか、どのようにして日本は経済成長と繁栄と幸せのために僕らは何をしたほうがいいのか全然わかっていない。ベターな日本にするための公共的議論はどこへいってしまったのだろう。僕が知らないだけかもしれない。

 

移民が増えたときの日本を想像してみた。日本語を得意としない移民同士のコミュニケーションで使用されるのは彼らの母国語あるいは英語だろう。たぶん英語で彼らはコミュニケーションすると思う。そういった彼らと僕らが話すには日本語か英語かその他共通の言語だけど、たぶん日本語と英語が混ざったりする会話になると思う。

 

まったく日本語を理解できないが英語やその他の言語がしゃべれる移民も出てくるだろう。そうした移民とのコミュニケーションの機会を自分の言語能力の向上に役立てられる人間が増えればベターだ。英語が得意ではないけれど英語を話す機会が移民のおかげで増えたり、生活するために英語を使える場面が増えたりとそういった理由から機会を有効に使って自分の質を向上させられたらベターだ。

 

世界の想像する日本人像を変えてやるのだ。日本人は英語がヘタクソだから、と言われなくなった日本人が生活するのはそうした移民と共栄共存する日本があることで世界の価値観の変化は加速すると僕は思う。

 

グローバル化は新しくもなんともなく昔からあって、異文化を受け入れて他国の書物を読んで知識を蓄え国を発展させてきた。今の僕らは昔の人たちと同じことをやっているのだけれど、僕らは何のために国を発展・開発させるのか?ということをいま生きている人とその先の人のために問い直す必要がある。

 

経済成長という言葉があって一般的に実質GDPの成長率の増加をいうけれど、それが目標にされて他にも重要なことがあるのに他のことは置いてけぼりにされていることがしばしばある。

 

僕らは何のための経済成長か?ということを考えてきたのだろうか。よく経済を成長させるにはあれをしてこれをして、とニュースやブログやツイッター等で拝見するがそこには何のための経済成長か?という考えが見えてこないことがある。見えるとすれば経済成長によってビジネスを活性化させるみたいなことだ。

 

GDPで測れないことを知るのは何のための経済成長か?を考える助けになるだろう。たぶん。

 

僕はアマルティア・センの著書をほとんど持っていて邦書や洋書問わず読んでいる。さっき書いた「GDPで測れないこと」も彼の著書にある。さらにおもしろい提案まで知ることができた。嬉しいことにその著書の基になったReportがPDFで無料で読める。(Reportは英語で書かれている)>http://www.stiglitz-sen-fitoussi.fr/documents/rapport_anglais.pdf

 

日本語で読みたい人のための翻訳本「暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案」もある。僕は安く読みたい派なので洋書版を持っているがPDFで読める上に語句検索が可能なPDFのほうが僕は良いと思う。経済や経済学に興味がある方には是非読んで頂きたい。GDPあげあげばかり言う人たちに対する批判的な価値観と根拠をこの本で得られることが出来ると僕は思うので強くお勧めする。また時間を費やす価値は僕にはあったことを書いておく。この本を読んでくれた人がそこから何のための経済成長をするのか考えるキッカケになってくれたらとても嬉しい。

日本に帰ってきて思ったこと。

インド5ヶ月、トルコとエジプトそれぞれ1ヶ月そしてバルセロナで3ヶ月合計だいたい10ヶ月くらいの旅から帰ってきました。日本に帰ってきてまず初めに違和感があったのは空港から実家へ向かう電車内で。

 

電車の中が静かでつまらない。電車に自転車乗せてくる人がいない。あと、電車にベビーカー専用のスペースがない。

 

 

どれもが日本に居たときは慣れていたことなのに、なんか変だなーと思ったのですよね。

 

インドでは夜の電車で皆が寝静まっているときも「チャイ!チャイ!チャーイ!」とチャイ屋のおっさんがうるさく周っているし、バルセロナではメトロで自転車乗せてくる人が普通にいて、楽器を演奏し始める人がいてその演奏が終わるとチップをくれと言ってきたり、大声で喋ってるのも普通だったりしました。ベビーカーで乗ってくる人が居たのですがスペースがないので大変そうでした。トルコやバルセロナの電車はベビーカー専用のスペースがあったりします。ちなみに3年くらい前にイギリスはロンドンに行ったときも自転車持って電車にのってくる人が普通にいたり、楽器を演奏してチップをくれと言う人がいたりしました。

 

それらに慣れてしまい逆に日本の慣れを忘れて帰ってきたので違和感を覚えたのかなーと。日本もあれくらい寛容ならいいのに・・・と思ったりしました。

 

良し悪しを抜きにして、僕のなかではこの違和感を覚えられたことそれ自体に価値があって、「慣れって怖いねー」っとよく言われたりしますが僕はもったいないと思うのです。というわけで全体的に物事に寛容になったらいいな・・・日本。。。

インドから文明の問題を考えてみた。

暇なので、インドから文明の問題を考えてみました。

 

停電がよく起こる生活は、ネット使ったり電気を使うことで生産活動をする人間にとって良くないことだなーと思っていましたが、実際にインドでそういう生活を経験してみるとやっぱり良くないことだと再確認した昨今です。停電したり、そもそも電気がつかなかったりすることは生活の質に影響します。

 

インドの人口は約12億人で日本の約10倍ですがインドの人口の3,4割の人達は電気の恩恵を受けずに生活していたりします。路上で生活して雨風をしのぐ家がない人もいたりします。で、暗くなると本が読み難かったり、読めなかったりするわけです。すると学校から帰って友達と遊んでから勉強を家でする(したいと思わないかもしれないが)こと、つまり日本人にできる普通のことがインドでは環境のせいで普通に「することができない人」が3億人以上いるわけです。つまり「普通」が普通ではない状況があるわけです。

 

電力供給がそもそも不足している状況をインド政府は原子力発電によって改善しようとしていたりしますが、再生可能エネルギーの開発にも力を入れていたりします。でも再生可能エネルギーと化石燃料だけでは電力需要を満たせないし地球温暖化と福島の事故のことを考慮しても再生可能エネルギーだけで電力供給するのはまだまだ先なのがインドの現状です。

 

原子力発電所で事故が起こると、国内だけではなく環境と海外にも影響があり生活している人々への影響も大きいことが福島の事故でわかったりしました。不確実性によって起きる原子力の事故を無くすには地球から原子力発電所が無くなる必要があるわけです。が、それは世界の文脈で長期的な問題なわけです。なので日本だけで脱原発をしても課題は他の国、というか世界が、いや、人類の文明の問題なので世界に目を向けて世界と対話する必要があったりします。なので世界の原子力発電を主要な電源とする割合をへらす観点でネットで日本の文脈をみると、再生可能エネルギーへの投資を政府に要求することが不足していると思うんですよね。日本が世界に向けて発信するメッセージが再生可能エネルギーの投資の要求のほうが、その分野の技術開発による経済成長にも繋がる上に生活の質が向上する人が増えるので良い。と個人的には思うのですよね。

 

一人ひとりの生活の質を考えたときにインドでは原発を増やして電力供給をしようとしていて再生可能エネルギーへの投資も増やしているけれど、昨今の日本で日本の原発の再稼動に反対している人が、インドでの原子力発電と原発の増設にいますぐ反対しないことは矛盾してるのでしょうか。原子力を主要な電源にする割合を減らすのには時間差があって現実に電力が供給できていないインドでは3割(3億人以上)の人間が電力の恩恵を受けることができていないです。なので、生活の質の向上はしたほうが良いと。インドから出発して世界に拡張した文脈で考えた生活の質からいえば、脱原発を望む人がいますぐ稼動する原子力を止めることに賛成しないのは矛盾しない。そう思っています。

 

ところで時間について、再生可能エネルギーの技術開発が進むには時間が必要なわけです。そして実用化する時間も必要なわけです。再生可能エネルギーのみで電力供給を行えるまでの開発が必要なわけです。開発には投資が必要なわけです。なので国民の生活の質と人類の文明のために各国政府は再生可能エネルギーにもっと投資をしたほうがいいと思うんですよね。

 

文章が長くなりましたが、これは文明とエネルギーの話で、結論は投資をもっとしたほうがいいんじゃね?です。いや、文明のために再生可能エネルギーの投資をもっと強く要求したほうがいいんじゃね?という話です。あと長期的に再生可能エネルギーを増やして原子力発電の電源の割合を減らすことと、今稼動している原子力発電所を止めないことは今世界で生きている人間一人ひとりの生活の質の観点から矛盾しない。という話です。

 

タータ!(マーラーヤラム語で「またね」の意)

国語のない国、インド。

日本には国語がある。日本語のことを国語と呼んでいる。

f:id:kesoji:20120629173804j:plain

 CPIM(インド共産党マルクス主義派)の赤旗

 

国語は自分自身がその国の国民であると思うことを助けるように機能している。この記事を読んでいる人は学校で「国語」の授業を受けた人が多いと思う。そして、その授業で学んだことのひとつに日本語がある。漢文や古典も読んだりしたと思うが、まずコミュニケーションのための日本語を学んでいるはずである。だが、科目は「日本語」ではなく「国語」である。だから「国語」として日本語を学んだ日本人は、国語が自分自身がその国の国民であると思うことを助けるように機能することから日本語を話すことで自分の持つ複数のアイデンティティの中から国民としてのアイデンティティを選択している。

 

「国語」は国民国家の統合にとって重要であるとゼミで議論されたのを思い出した。が、誰の論文かは忘れた。ところで、「国語」が国民国家の統合にとって重要かどうかは国民国家とはそもそも何か、その定義によって分かれると僕は思っている。が、その論文ではその定義は一国家に一民族とされていたと思う。うろ覚えである。が、そうだとしても、そもそも一民族一国家というのは可能なのか?と甚だ疑問である。インドは多民族国家なので不可能だ。また、国民国家を言語で統一された国家と定義しても、言語統一による国民国家をその国民になるであろう民が望むのか、望んでいるかに関わらずそもそもそれを目指し実現させることは民を幸せにするのだろうか。

 

多民族、多宗教国家で多様性と寛容さを持ち合わせた民主主義国家のインドには国語がない。

 

単一民族の国家であれば同じ民族として「国語」を使うことで統一意識を高められる、という点で重要であろうが多民族国家で統一意識を高めることは可能なのだろうか?可能だとしても「国語」によって統一意識を高められなければならない理由は何だろうか?なぜ「国語」なのか。逆に統一感を失わせる結果になってしまうことは予想できないのだろうか。新渡戸稲造は大和民族の優勢論を憂いたことがあった。彼は、

誇りとすべきことは必ずしも人種の純粋なる点ではない。また国家の勃興隆盛となるは人種や血の単一なるによるとも思われぬ。欧洲の諸国を見渡しても、如何なる国でも人種的に統一された純粋な所は一もない故に我々の系図の中に朝鮮人や支那人の入っているのを寧ろ誇とする時代が来るであろう。しかして極東民族の間に親密を保つ情愛も今日より一層深くなるべき理由も新に発見さるるであろう」 

と語っている。僕はその理由が寛容さと多様性の中から自ら掴み取るアイデンティティの複数性だと思っている。日本にいる外国人を排外的に扱おうとする議論を新渡戸稲造と一緒に憂いたい方は、こちらを読んでみてくださいー。

>『民族優勢説の危険』 新渡戸稲造著 青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000718/files/50897_41261.html

 

ある民族の誇りや重要な何かが言語にあるとしたら、他の民族の言語が「国語」として統一されてしまうと、ある民族にとって重要な何かを手放すようなことにはならないだろうか?実際インドでは、タミル語を話すドラヴィダ系のインド人が多く住むタミルナードゥ州でヒンディーを連邦公用語にすることにさえ反対している。

ヒンディーは国語か?ということが書かれた記事があるので興味があれば読んでみてください。>http://www.siliconindia.com/shownews/Is_Hindi_our_National_Language-nid-87992-cid-29.html

 

f:id:kesoji:20120619181728j:plain

Puducherryにてオートドライバー達と 

 

国語を決めない生き方を選択しているインドは、国語を持った国より統一感に欠けているのだろうか?インドは12億人の人口をもつ民主主義国家で多宗教、多言語で寛容さと多様性を持ち合わせている。多様性と寛容さは統一感とのトレードオフなのだろうか。僕はインドが「国語」による国家統一を目指すとしたら、それはかえって統一感を失わせる結果になると思っている。なぜなら連邦公用語としてヒンディーを使用する段階で反対しているよりもさらに強くドラヴィダ系の人々によって反対されることになるだろうから。もし「国語」が決められても彼らにとって言語の持つ大切な何かを手放すような「国語」の決定は反対されるだろう。

 

言語による統一がされてなくても、多様性があって寛容さがあって多宗教で民主主義国家をなしている割りにみんなバラバラってわけでもない中庸さが良さだと僕は思う。

 

国語がなくてもインド人はインド人なのだ。インド人がインド人たらしめているものは多宗教の寛容さ、800以上の言語が話され複数の民族が暮らす、その他豊かな多様性の中から自分で掴み取ったアイデンティティであると僕は思う。

 

そんじゃーね!

Dangers & Annyoances in Chennai

チェンナイでは何故か主食が日本食になっている僕です。

 

f:id:kesoji:20120607145322j:plain

Marina Beach

 

これまで寺院とか教会とかを回って写真をとって楽しんでいたりしたのですが、ガイドブック以外での説明なしにひたすら寺院や教会を眺めるよりはビーチで涼んでいたいと思っていたりする昨今です。

 

ところでロンリープラネットという英語のガイドブックを持ち歩いてたりするのですが、それには各地のページにDangers & Annoyancesの情報があって何に気をつけたほうがいいか分かるようになっていたりします。で、チェンナイではオートリキシャーのドライバー(以下オート)が”50ルピーで街のツアーをしないか?と提示してきますが、それは話が良すぎるのです。ある百貨店や土産物屋から次の店まで一日中連れまわされることを予想してください。”という主旨のことが書いてあったりします。

 

f:id:kesoji:20120607145254j:plain

Marina Beach2

僕がMarina Beachに訪れたとき、それと似た提示をオートからされました。実際は、「歴史的な建物や場所を案内する。その後4つのお店に行ってもらう。あなたが4つのお店に行くとガソリンのクーポンが貰える。その後あなたのゲストハウスまで送る。トータルで50ルピーだ。」ということでした。

 

念のため僕が「何も買う気がないからね。何も欲しくないし。僕が何も買わなくてもガソリンのクーポン貰えるんでしょ?なにか問題ある?」と確認した。

 

彼は「何も買わなくていい。見るだけでいい。ノープロブレム!」と了解を得たので50ルピーのツアーに参加してみました。実際はガイドしてくれるわけでもないので場所に連れていかれるだけだったりします。

 

ところでこの”ツアー”なるものは、お土産やに連れていかれた人が支払った分の3割くらいがコミッションとしてオートに入るコミッションビジネスだったりします。(ツアー後僕の奢りで一緒に酒を飲んでる最中に、コミッションが3割入るビジネスだということをドライバーの彼に直接確認とりました。)

 

で、僕は教会やらマリナビーチの外れに連れていってもらった後、彼のいう4つのお店に連れていってもらいました。が、最終的には僕はなぜか5つ目のお店にも連れていかれたりしました。僕がいったお店にあった商品は仏像、カーペット、サリー、バッグ、アクセサリー類等々。。。5つの店ほとんど同じものが売ってたりしました。

 

お店1

店員「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

 

僕「いいえ、見てるだけですー。」

 

店員「家族や彼女や友達のお土産にどうですか?ほら、これなんかいかがでしょう?」

 

僕「何も欲しくないですー。」

 

店員「・・・オートドライバーに連れてこられたんですか?」

 

僕「はいー。」

 

店員「彼は見るだけでいいって言ってたんですか?」

 

僕「そうですー。」

 

店員「何か買っていったほうがいいんじゃないですか?」

 

僕「お土産欲しい人誰もいないし僕も欲しくないのですよー。」

 

3分くらいで店内をすべて回りきった。

 

僕「それでは、もう行きますねー。ではではー。」

 

店員「買わないんですか?」

 

僕「いらないですー。サー、ありがとうございましたー。」

 

店員「サー、ありがとうございましたー。」

 

店を出るとオートドライバーが何か買ったか聞いてきた。

僕は何も買っていないといった。買うつもりはないと再度伝えた。

 

オート「ちょっと店出るの早すぎるから、もうちょっと長く居てください。」

 

僕「え?4つのお店に行けばガソリンのクーポン貰えるんですよね?」

 

オート「短すぎると貰えないからもうちょっと長く居てください」

 

僕「はいはいー。”ちょっと”ね。」

 

店2

店員「いらっしゃいませー。」

 

僕「どうもー。」

 

店員「何かお探しですか?」

 

僕「いいえ、見てるだけですー。」

 

店員「奥にスカーフとかありますよ。彼女とかお母さんのプレゼントにどうですか?」

 

僕「いらないです。誰もそういうの欲しがってないんですよね。下には何があるんですか?」

 

店員「下には手作りの品が置いてありますよ。」

 

僕「へぇー、じゃあ見てみますー。」

 

地下へ行く。

 

店員「何かお探しですか?」

 

僕「いいえ、見てるだけですー。」

 

店員「お土産にどうですか?チェンナイといえば彫刻なのでお土産に買っていってください。」

 

僕「興味ないんですよねー。ラビンドラナートタゴールとかアマルティアセンに興味あるんですけど彼らに関する商品って何か置いてないんですか?(仏像しか置いてない地下で敢えて聞いてみた)」

 

店員「ラビ・・・ラビンドラナートタゴールですか?すると本とか詩とかですか?」

 

僕「そうです。ところでアマルティアセンのほうはどうですか?」

 

店員「書籍はうちでは置いてないんですよね。タゴールに関係してるのは・・・この象の彫刻とかですね。。。」

 

僕「象さんはいらないです。ところでアクバルに関係したものは売ってますか?」

 

店員「アクバルならありますよ!ムガル時代のタイル絵です。ほら、これなんかどうですか」

 

僕「へぇー。」

 

店員「これもありますよ。」

 

僕「へぇー。」

 

店員「こういうのもどうですか?」

次から次へと出してくる。全部で6枚くらい出されたりしました。

 

店員「これらのなかでどれが欲しいですか?」

 

僕「全部いらないですー。」

 

店員「え、いらないの?!」

 

僕「いらないですー。じゃ、そろそろ行きますねー。」

 

店員「いいえ、何か買ってください。そうじゃないと僕がボスに殺されるんです。買ってください。」

 

僕「あはは、大丈夫だよ。そういう問題にはならないでしょ。じゃあバイバイ」

 

店員「お兄さん!ちょっと!」

 

上に戻った。

 

彼を殺さないで下さいね。と誰にも言わなかったが僕が何も買わずに出て行こうとするのをボスっぽい人が笑顔でみていたがその顔は結構引きつっていた。

 

僕「サー、ありがとうございましたー。ではではー。」

 

ボス一同「サー、ありがとうございましたー。」

 

外で待っていたオート。

 

オート「何も買わなかった?」

 

僕「もちろん。買わなかった。問題ないよね?」

 

オート「うん、大丈夫。次のところ行きましょう。」

 

店3

店員「サー、何かお探しですか?」

 

僕「いえ、見てるだけですー。」

 

近くに見覚えのあるバッグを見つけたが普通の価格は300~500ルピーくらいなのですがその店では1500~2000ルピーだったので驚きの高さ。

 

僕「凄いバッグですねー( ̄ー ̄)ニヤリッ」

 

店員「これなんかどうでしょう?良いものですよ。」

 

僕「へぇー。」

 

店員「これどうですか?」

 

僕「キラキラですねー。というか女の子っぽいですね。いらないですー。」

 

店員「ところで、どちらの出身ですか?」

 

僕「カンボジアですー。」

 

店員「カンボジアですかー。なんか顔が日本人っぽいですね。」

 

僕「そうですよね。よく言われますー。」

 

店員「親戚に日本人の方がいらっしゃったりするんですか?」

 

僕「そうなんですよー!」

 

店員「やっぱり!日本語も話せたりするんですか?」

 

僕「日本語もいけますよ。日本で暮らしたこともあって日本語の勉強もしたので。」

 

店員「ご職業は何なのですか?」

 

僕「学生ですー。国際経済を専攻してたりしますー。」

 

店員「カンボジアで、ですよね?」

 

僕「そうそう!カンボジアの大学ですー。」

 

店員「そうなのですかー!ところで首にぶらさげてるものは何ですか?」

 

僕「これコンパスです。」

 

店員「いくらくらいするんですか?」

 

僕「これ、日本人の友達から貰ったものなんですよねー。友達から聞きましたがルピーでいうと350ルピーくらいだったと思いますー。」

 

店員「いいですねー。プレゼントしてくれませんか?」

 

僕「あははー、無理です。ところでこのポストカードいいですね。」

 

店員「ポストカード素敵でしょう。こっちにはスカーフとかいろいろ置いてありますよ。いかがでしょう。」

スカーフとかいろいろと高そうなものへ誘導しようとする店員。

 

僕「いや、ポストカードのほうがいいです。ちょっと見ていいですか。」

 

店員「もちろんです。どうぞどうぞ。」

 

僕「これ一枚いくらですか?」

 

店員「20ルピーです。」

 

僕「へぇー。」

 

僕はここで3枚のポストカードを買った。60ルピーだった。20ルピーは正直高いと思ったが他の高いものと比べればマシだった。ちゃんと買物したのだからオートもクーポン貰えるだろうと思っていた。

 

会計後・・・

店員「そのコンパス、交換しませんか?他のポストカードと。」

 

僕「いやいや、無理ですー。」

 

店を出る僕。

店員も外へ一緒にでてきた。そこで外にいたもう1人のインド人とオートと3人で現地語で話していた。カンボジア出身のひとが来てポストカード買ってったんだよ。3枚。という会話だけは雰囲気でわかった。がもう1人のインド人は日本人じゃないのか?と聞き返していたみたいだが、店員はカンボジア人だといっているようだった。

バレると面倒だと思っていたが、オートリキシャーは運よく走り出し僕は彼らの追求を免れた。

 

オート「ポストカード3枚買ったんだって?笑 いくらだった?」

 

僕「一枚20ルピーで60ルピー払ったよ。買物したのだからクーポン貰えるのでしょう?」

 

オート「大丈夫。スカーフとかアクセサリーとか高いものもし何か買ってくれたら僕の子供の制服を買うお金が入ってくるんだ。だから何でもいいから一つ買ってみてくれないかな。」

 

僕「いや、買わない。」

 

4つ目の店についた。

 

店員「サー、何かお探しでしょうか?」

 

僕「いや、見てるだけです。」

 

店員「見てるだけですか?何か買わないんですか?」

 

僕「いや、買わないです。見てるだけ。」

 

店員「オートドライバーが外で待ってるでしょう?」

 

僕「そうですね。待ってます。」

 

店員「なら行ってください。」

 

僕「はいはいー。サー、ありがとうー。ではではー。」

 

30秒くらいで出てきてしまった。

 

オートリキシャーだけあったがドライバーの姿はなかった。ガソリンのクーポンをもらいにいったらしい。1分くらい待つと彼が戻ってきた。

 

オート「店出るの早すぎ笑 10分くらい店にいないとクーポンもらえないんだよ。」

 

僕「いやーそんなこといわれてもね。何も欲しくないっていったら店の外に行ってくれっていわれましてね。で、ガソリンのクーポンもらえたの?」

 

オート「”買おうと考えてる”とだけ言ってさ、考えてるだけでいいのだよ。クーポンはあなたが店にいる時間が短すぎるから貰えなかった。」

 

僕「そうなんだ。じゃあ4つ回り終わったことだし、飲みに行こうか。」

 

オート「サー、5つ目の場所に行ってから飲みにいってその後、あなたのゲストハウスまで送ります。いい?」

 

僕「いいよー、いこうーいこうー。」

 

5つ目の店

 

店員「何かお探しでしょうか?」

 

僕「あはは、見てるだけですー。」

 

スタスタ歩いて小物をみつける。

 

僕「この小さい彫刻いくらですかー?」

 

店員「150ルピーです。」

 

僕「へぇー。この棚の全部150ルピー?」

 

店員「そうです150ルピーです。」

 

その小さい彫刻を見てみると、謎の白い固体がこびりついていて気持ち悪かった。

ほとんどの小さな彫刻についていた。謎の白い固体の正体については店員に聞けなかった。

 

僕「この下にあるのってお香ですよね。」

 

店員「そうですよー。いい香りがするのがたくさんあります。」

 

僕はパッケージの裏側を見てどこで売られていたものなのか確かめた。そこにはpondicherry govと書いてあった。ポンディチェリーといえばこれから僕が行く場所である。

 

僕「これpondicherryで売ってるんですねー。」

 

店員「・・・?」

 

僕「これから僕pondicherry行くんですよー。」

 

店員「そうなんですかー。」

 

僕「じゃ、そろそろ行きますねー。」

 

店員「あれ!?お香は買わないんですか?」

 

僕「それpondicherryで売ってるのですよね?これからpondicherryに行くので現地で買います。サー、ありがとー。ではではー。」

 

店員「・・・サー、ありがとうございました。」

 

こうして土産物屋めぐりは幕を閉じた。

 

あれ?土産物屋めぐりしてたんだっけ?ツアーがメインじゃなかったっけ?とか思ってしまうとこの人生ゲームは楽しめませんよ( ̄ー ̄)ニヤリッ

 

結局オートはガソリンのクーポンを貰うことが出来なかった。

その後、僕はそのドライバーと一緒に酒を飲んでいた。僕の奢りで。

 

お酒を飲んでる最中彼は彼の子供と家族の話を僕にしてきた。最終的に彼の子供の学校の授業料を払えないのでお金を恵んでくれないか?とずっと繰り返された。

 

僕「そういえば60ルピー払ったけど、あれコミッションビジネスだよね。ああいうの既に経験してるんだよね。ドライバーが連れていったお店で払った30%があなたが貰えるお金でしょ?」

 

オート「そうだけど少なすぎるよ。6ルピーくらいだよ。」

 

僕「いやいや、60ルピーの100%が60ルピーだよ?10%は6ルピーだよ。30%は18ルピーだから約20ルピーでしょ。20ルピー貰えるんだからいいじゃん。」

 

オート「20ルピーだって少ないよ。あのお店で1000とか2000ルピーの買物してくれたらハッピーだよ。」

 

僕「いま僕の奢りでお酒飲んでるからハッピーでしょ?ハッピーじゃないの?」

 

オート「ハッピーだよ」

 

オート「そういえば、大事な話があって助けて欲しいことがあるんです。僕の子供の学費が1800ルピーなのですが、お金がなくて払えないのでお金を恵んで助けてほしいんです。」

 

僕「助けたくないですー。」

 

オート「お酒飲み終わってからいくらくれるか考えてくれればいいから」

 

僕「いや、そういう問題抱えてるならNGOに相談したほうがいいですよ。Non government organizationっていうのがあるので、あなたのこと助けてくれると思いますよ。」

 

オート「NGO?知らない。」

 

僕「インターネット使って調べてみてくださいー。」

 

オート「インターネット使えないよ。」

 

僕「僕が出来るのはアドバイスだけだから。お金はあげる気ないよ。」

 

オート「お酒飲み終わってからいくらくれるか考えてくれればいいから」

 

僕「いやいや、お金あげないから。というかお酒奢ってるんだから十分でしょう。」

 

彼はずっとこの話を繰り返して僕はだんだん面倒くさくなってきてお酒も美味しくなくなってきたのであった。

 

僕「もうそろそろ行くよ。それ飲んで行こう。僕はもう飲まないから。」

 

オート「待って、あと一本もらっていい?」

 

僕「ダメだよ。ほら、行くよ。」

 

オート「家に帰ってから飲む用に一本欲しいんだよ。」

 

僕「お金出さないよ。欲しいなら自分で買いなさい。僕はもう1人で行くよ。約束の50ルピーは払うから。」

 

オート「50ルピーはいらないから、学費のために助けてくれない?助けてくれたらプジャ、、、家族でお祈りするよあなたのこと。」

 

僕「まったく助けたくないよ。はい50ルピー。ちゃんと渡したからね。」

 

そうして僕はインド人だらけの酒場を後にした。

 

その後、違うオートを拾ってゲストハウスまで帰ってきた。

 

実は彼とインド携帯の電話番号を交換していた。

ゲストハウスに戻ってきてから彼から鬼電がきていたが寝たりニコ生していたので電話には出れなかった。その後、彼から電話がかかってくることはなかった。

 

>>

ビーチで最初に会ったときに彼から、「あなたの友達に僕のことを紹介してくれ。」といわれているので彼の名前だけ紹介しよう。

 

彼の名はKumar。チェンナイに住むオートドライバーだ。

マリナビーチに行くと会えるかもしれないので気が向いた方は是非。

 

 

ではでは。

 

僕はこのガイドブックを使って旅をしました。